院生しょぼしょぼ日記

博士課程をしょぼしょぼやっています

結局誰がSPRING抗議アクションの「主催者」なのか

いったん極端な例で考えてみましょう

あなたが100人規模のイベントを企画したとします。企画・立案、運営メンバー集め、打合せ準備、全て自分でやっている大変なイベントです。そんな中、少しでも手伝ってくれる人がいたら嬉しいですよね。当日、椅子を一つ運んでくれるだけでも感謝したいですよね

しかし、その椅子を一つ運んだだけの人が「私は主催者です」と言い出したら、声かけてきたメディア取材に自分のイベントとして答えていたら、「おいおい」と突っ込みたくなりませんか

いま起きているのはこういう事態なのです

あなたはその椅子の人がやってくれたことに感謝しているので、直接的に「お前は主催者じゃねえだろ」とは言わず「このイベントに関することは私を通してください」と伝えたとします。その言葉を聞いた別の人が「全部が全部、あなたに話を通さなければいけないんですか?それは権力の集中ですよ」と言ってきます。どう思いますか。「いやいやいや」って言いたくなりませんか

 

私はSPRING抗議アクションに関わった全ての人に感謝しています。各大学ですぐにアクションをしてくれたみなさん、一緒に意見を出し合ってくれたみなさん、署名や実態調査を進めてくれたみなさん、スピーチやUDトークスタッフを快く引き受けてくれたみなさん、ほかに他団体との折衝や当日の作業など、一つ一つ挙げていたらキリがないほどのことが、本当に多くの方の努力で、成り立ってきました。このみなさんの尽力がなければ、SPRING抗議アクションは今の形にはなっていなかったと思います

 

その一方で、2025年9月現在まで抗議活動がある程度の規模でアクティブになっているのは、私が主導する路上プロテストがあってこそという状況になっています

仮に私が路上プロテストをやめたら、他に路上のノウハウを持っている人がいないこともあり、SPRING抗議アクション自体が自然消滅するでしょう

路上プロテストに関しては、これまで私が企画を練り、運営メンバーを募り、グループLINEなどを作成し、打合せの日程調整・議事録叩き台作り、打合せの進行、機材の構成練りと手配、UDトークスタッフ手配、SNS告知画像作り・インスタ投稿、コール作成・インスタ投稿、共同投稿者の検討・決定、当日の準備の組み立て、当日1時間前に来て場所取り、設営指揮、司会とアクションの進行管理、撤収指揮、アクション振り返りの作成・SNS投稿、UDトークのログ保存、Webサイト記事用の原稿集め、などなど、ほとんどの作業を担ってきました

確かに他の人も色々な業務を担ってくれています。みなさん本当に忙しい中、色々調整して必死で取り組んでくれています。しかしみなさんのリソースに限りがある中で、上に挙げたように、全体の業務の重要な部分はほとんど、体感9割を私が担当する現状になっています。分担したい気持ちは山々なのですが、作業の大部分は0から1を作り出すもので、なかなか依頼しづらいのです。それに、残りの1割をみなさんで分担しているという感じなのですが、依頼した作業もちょっと追いつかないという場合もあります

残りの1割の作業とは、補足的な情報のSNS投稿原稿作り・投稿、プレスリリースの作成、メディアへの呼びかけ、当日スピーチ、設営補助、撤収補助などです

こういった残りの1割を複数人で分担している人、つまり担っている作業が全体の数%程度の人が、私に言及せず自分のアクションとしてメディアに話すのを止めることが、「権力の集中」でしょうか

 

繰り返しになりますが、私はどんな小さな作業でも、やってくれた方に心から感謝をしています。やると言ってできなかった作業があっても、集合時間に遅刻しても、むしろギリギリの中で引き受けてくれたことにありがとうと言いたいです

私から見るとみなさん120%のエネルギーを使って取り組んでくれていました

しかし、各自がどれだけ頑張ったかということと、その人の作業が全体からするとあまり大きな割合を占めるわけではないことは、両立するのです

 

ここまでの話を分かりやすく言うと、100人のイベントで椅子を一つ運んだ人に、イベントの代表性はあるのでしょうか

「主催者です」と外部に言って構わないのでしょうか

 

これは初回の路上アクションの時からずっと私が抱いていた違和感ですが、説明しようとすると私以外の人の努力を相対的に過小評価することが避けられないので、今まで言っていませんでした

今も本当に気分が良くないです

感謝を伝えたいのに、価値の切り下げを行うしかないからです

しかし私がこのことを説明しないことが一因となって問題が生じました

(説明しなくても見えている人には見えていたようですが)

 

ここで重要なのは「主導権取られた!悔しい!!」のような話ではないことです。果たして椅子を一つしか運んでいない人に、イベント全体のことを適切に説明することができるのか、ということなのです

せっかくメディアで書いてもらえるのに、部分的にしか伝えられなかったら、せっかくの機会を生かせなくなってしまいます。感情や気持ちの話ではなく、運動上の問題なのです

 

そしてほかにも重要なのは、排外主義に反対する、差別に反対する運動が、最初に声を上げた人、全体の9割を担ってる人をないがしろにする構造でよいのでしょうか

逆にいえば、仲間内で発起人を、統括してる人をないがしろにする人が、反差別の運動を担えるのでしょうか

 

誰が「主催者」なのか、その問いに真摯に向き合うことなくこのままSPRING抗議アクションを続けるのは問題がありすぎると判断してこの記事を書きました

内部Discordではなく外部ブログで書いたのは、Discordがそもそも長文をまとめて保管しておくということと相性が悪いのと、このような話をじっくりできる状況ではないからです

ひとまず私の認識をまとめておきます